ところで、ここに私たちの注意をひき且つ周密な自省を求めている一つのことがある。それは、文化面をもひきくるめてのこういう誤った全体主義の見かたが、どうして今日大衆の進歩的な部分、知識人の進歩的な部分によって、それが当然受けるべきだけ十分、論点をはっきりさせた反撃をうけずにいるかということである。その心理的な諸原因について、もっと鋭い各自の関心が向けられて、しかるべきではなかろうか。 ヨーロッパ大戦後の中流層の没落は世界的規模において生じた。インテリゲンツィアの勤労者階級化の傾向はこれに応じて必然に生じたのであり、更に一九二九年の恐慌以後今日に至る一般の不況は、益々深刻にこの社会的現象を展開させている。十年前に労働予備軍に加った人々の生活が低下しつつある傍ら、新しい青年層の無産者化が大量に行われつつある。それ故詳しく具体的に見れば、今日の大衆の実質の中には、画期的な多量さで知識人要素が内包されて来ているわけである。大衆の質も量も、この十年間に大いに変化して来ていることは否めない事実なのである。 日本に解放運動の思想が入って来た時分と今日とでは、知識人の社会的足場はずーっと動いて来ている。左翼運動の波が表面に見えた頃、進歩的な知識人の生活は経済的にも文化的にも比較すれば今日より高いところにあったし、文化的知的自由の範囲も広かった。
Wednesday, November 30, 2005
文化反動が、大衆・民衆の心持への結合というジェスチュアをもって強力に行われているのが、今日の重大な社会的特色であると思う。 大衆といい、民衆といい、昨今は国民といい、極めて粗笨(そほん)な全体主義でおおうたもののいいかたをし、而もその全体の水準を生活全面で最低まで押し下げておいて、全体という言葉の逆用によって、大衆とその一部としての知識人の進歩性を窒息させているのが現実のありようなのである。 大衆課税、物価騰貴が大衆の双肩にかかっている。大衆の文化を圧する方策が、大衆の現実という名において大衆の頭上にふりかかって来ている。従って、大衆にわかる小説を書かなければならないという一見自明な『文学界』などの提案も、嘗てプロレタリア文学運動が、文学の大衆性と通俗性との相違を明らかにしようとして、作品行動の上でも努力した、その正当な努力の方向に沿うて再吟味することなしには、こういう外面の大衆への関心の底に横(よこた)わっている顕著な反動の本質が、指摘されない危険があるのである。
全く同じ事実が、知識人の社会的文化的活動についてあらわれている。知識人、インテリゲンツィアというと、知識人自身の間にのこっている習慣的な概括で、合理的な頭脳の活動をもち、学識と広い知的鍛練によって現実を客観的な歴史の真実に於て進歩的に把握し得る人々のように思うが、この概括は必しも現実に即していない。今日の知識人は著しい社会の階級的分化の間に生きている。明治初年から興隆期にかけてのごく短い期間は、日本のインテリゲンツィアも知的進歩性は摩擦少なく興隆する支配力と共にあり得たのであったが、現在では、真実の知性は社会的矛盾を観破し、帰趨を明らかにするが故に、知識人に対しても民衆に対しても、許可すべきものでなくなって来ている。民衆の発展的因子としてひそめられている知的欲求は、そのような前進的欲求のないのが所謂(いわゆる)普通の民衆の一般な現実的感情であるという強引な結論と政策によって今日圧殺されているのであるし、知識人の一部は、所謂進歩的といわれる知識人達が求めているような合理性や人間性の自覚とその発露の要求は民衆の心持の日常から遊離した夢、公式であると高唱して、知識人みずから人間的知性の殺滅に動員されつつあるのである。小林秀雄氏などが、民衆は批判性をもたないものであるし、又そんなものを必要ともしていないと主張して、民衆の知性と文学における現実の批判性を抹殺しようとしたのは周知のことである。
